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うつ病と院生の闘い③

こんにちは!きびなごボールです!

 

 私は”吊るし上げ”の後、体調が一気に悪くなってしまいました。研究していても全く頭に入って来なくなり、常に腹痛を抱え、ときには気を失うほどでした。腹痛ということもあり、内科にかかっていました。しかしどこも悪くないと判断され、改善は見込めませんでした。そのような状況もあり家族からも「うつ病ではないのか?」と言われました。普通の家庭なら心配で病院に連れて行くと思います。でも私の家族ないし一族はうつ病に偏見がありました。私はそのような一族の考えには否定的でした。苦しいときに「うつ病?本当にそれだけは恥だからやめてね」と言われたとき、私のなかの何かが”プツり”と切れてしまいました。

ここでは詳細を述べませんが、私は家族ないし一族とはあまり関係がよくありませんでした。自分で言うのはためらいますが、家族にはいろいろな問題を抱えていたのです。そういうのも積もりに積もっていたのかもしれません。私と家族の関係が切れた瞬間だったのです。

 

本来なら”吊るし上げ”の直後に精神科に行くべきでした。でも私は判断がつかない状況にまで陥っていたのです。ひたすら内科に行き続け、体調を悪化させていきました。

次第に自分のなかで研究ができないことへの重い責任感を感じはじめ、希死念慮を抱くようになりました。秋口には毎日どのように自決すべきかを一日考え、遺書をひたすら描き続けていました。完全にうつ病にかかってしまっていたのです。

 

そして、とどめを刺される出来事が発生しました。家族が生活保護を受けることになったのです。前の記事にも記述しているかもしれませんが、私は国から受けている奨励金から毎月、家庭に生活費を納めていました。しかし、それだけでは足りない状況になっていたのです。当時私は片親で病気をしている祖父母と暮らしていました。本来なら、若い私が就職して家庭を支えるはずでしたが、大学教授からの進学のすすめや叔父たち家族が祖父母の面倒をみること、自身の奨励金を家庭に納めるなどの条件のもとに私は大学院へ進学しました。ところがある日突然相談なしに叔父家族が生活保護を受けさせると宣告してきたのです。

ではなぜここで生活保護が問題になるのか。当時の生活保護法では家族内で大学以上の進学は禁止されていたからです。すなわち、大学以上の学問は贅沢品とみなされ、国はわれわれに強制的に退学を命令することができたのです。ここで家族が生活保護を受けると、私は学問の道を諦めざるおえないこと、中途半端な時期に就職活動をしなければならないこと、収入がなくなることなどの多くの問題が噴出することは必然的でした。

また、生活保護法の厄介な部分は細かい規則を実際に施行する各市町村で制定することが可能であったことです。例えるならA市では推薦で入学した大学進学は認めているが、B市では法令通り高校までしか進学は許さないなどです。私の住んでいた町ではこの例の後者でした。

この状況をなんとか打開したい私は実際に役所へ問い合わせしました。しかしそこで言われたのは「こんな貧乏な家族がいるのに進学したのか?」「勉強なんかしないで働きなさい」「学問しているなんておこがましい」とひどい言葉の数々でした。さらに住んでいた町の規則で私の存在が生活保護受給の妨げとなっていました。私は学問の道を完全に諦めなければならない状況だったのです。

私はなんとか学問を続けられる方法を調べはじめました。大学で関係書籍を読んだり、専門の研究者や法学者に相談したりしました。しかし、結果はいい方向に向かいませんでした。また先述したとおり、研究もまともにできない状態だったため当然調査は捗りませんでした。

 

次第に私の頭は思考停止していきました。同時にじっとしていられなくなり、手の震えが止まらなくなっていました。睡眠障害も悪化していて、1時間しか眠れなくなっていました。

体も心もボロボロになった私は国費をもらっているのに人々に自分の研究がフィードバック出来ていない責任や家庭を支えられなかった責任、なによりもこの世に生きていることが辛く感じてしまいました。

なにもかもうまくいかなくなったある日。私は責任から逃れるため研究室で首をくくりました。しかし、気がつくと紐が切れていて、研究室の先輩に助けてもらいました。私は死に切れなかったのです。

この事件をきっかけに大学内にある学生向けの病院の精神科に行きました。結果は当然入院でした。病院の先生は即刻、家族へ電話しました。その後私のもとに電話が掛かってきましたが、「はあ」の一言ですぐに切れてしまいました。この瞬間、私は天涯孤独となったのです。

今思えば入院はよかったと思います。しかし、同時に新たな地獄の幕開けでもありました。次回続きを綴ろうと思います。