きびなごボールによるきびさんぽ、きび読書部をおおくりするブログっす!

きびなごボールのブログ

きびなごボールのきびさんぽときび読書部の活動を綴ったブログっす!

戦争の記憶① 〜遊就館としょうけい館を訪ねてみよう!〜

今回はうつ病のお話はお休みです。別のお話をしようと思います。

 

私にとって夏と言えば甲子園!ですが、歴史をやってきた私にとってのもう一つの夏といえば戦争です。

 

74年前、日本はアジアと太平洋で戦争をしていました。その戦争が終わってから今年で74年が経ちます。74年という時間が経ってしまい、多くの戦争体験者が鬼籍に入られるという時代に突入しました。

 

その影響は大きく、私が住んでいる某町では、空襲で落とされた焼夷弾の炸裂痕が残る壁がまちの再開発でどんどん撤去されています。このような戦争の跡がなくなってきている状況は日本各地で起こっていると言われています。

また、テレビで戦争特集番組が昔と比べて減ってきていることも指摘できるでしょう。

 

このような状況をみて私は、かつての惨劇である戦争の記憶が人々から遠のいてしまうのではないかと危惧しています。

そこで自分なりにこの夏を使って戦争の記憶の継承をしてみたいと思います。

力不足な面もありますが、お付き合いいただけたらうれしいです。

 

今回のお題は「遊就館としょうけい館を訪れてみよう!」です。

戦争のことを学ぶ1つの方法は博物館や記念館を訪れることです。

特に博物館は身近にあり、入館料はお手頃です。

しかし、残念なことに、近年、アニメやゲームの影響で博物館の近現代史コーナーが縮小されていることが多いです。

そうなると、特定のジャンルを扱う博物館や記念館に行くのがいいと思います。

近現代史(戦争関連)で有名なところは昭和館(東京都千代田区)、ひめゆり平和祈念資料館(沖縄県糸満市広島平和記念資料館広島県中区)、知覧特攻平和会館(鹿児島県南九州市)などがあります。

(少し脱線すると自衛隊の基地にも戦争関連の展示施設があります。基本無料で、時間内であれば自由に見学できます。ただし、予約が必要なところもあるので、事前に確認してから見学に行きましょう。)

日本各地に様々な戦争関連を対象とした博物館や記念館があるので、ぜひ行ってみてください。

 

さて、本題に入ります。全国各地で素晴らしい博物館や記念館があるなかで、今回みなさんにオススメしたいのは遊就館としょうけい館です。どちらも東京都千代田区九段にあります(両方の距離は近いです、徒歩10分圏内)。

 

遊就館靖国神社の施設の1つで、古代の鎧から第二次世界大戦のものまで幅広く展示されています。施設内には本物の零戦や、日本で唯一現存している戦闘機彗星もあります。また、英霊と呼ばれる方々の遺書や遺族の方が寄贈した花嫁人形などはじめ英霊の遺品も展示されています。遊就館はもともと、戦利品や英霊の遺品を保存する宝物庫で、歴史は明治まで遡ります。 

 

一方、しょうけい館は傷痍軍人に関する記録の保存および資料の展示している施設です。傷痍軍人とは戦争で日常生活に支障が出るほどの怪我をした兵士のことです。代表的な方だと漫画家の故水木しげる先生です。

かつて傷痍軍人で結成した傷痍軍人会がありましたが、会員の減少と高齢化が進んだことで、2013年に解散しました。もともと傷痍軍人の記録の保存と継承のために厚生労働省がしょうけい館(戦傷病者史料館)を2006年に開設していましたが、会の解散後に会の機能を引き継ぎました。(しょうけい館を見学する際は万全な体調で行ってください)

 

なぜ私が今回の遊就館としょうけい館をおすすめしたのかというと、同じ東京都千代田区の九段にあるのに施設の性格や機能が正反対だからです。

その詳細については今回述べません。なぜなら直接見学して考えもらいたいからです。今期の夏に遊就館にいく予定がある方はぜひ、「靖国神社が伝えたいこと、伝えたくないこと」を考えてみてください。いろいろ思うところがあると思います。そして、その考えをしょうけい館で確認してみてください。

きっと戦争の本質や恐ろしさを学ぶことができると思います。

大学生時代に私も足元がすくんだことが今でも忘れられません。

 

以上が今回のお話です。いかがだったでしょうか。まず、自分で振り返ってみて文章力がないと思いましたw 読んでくださった方すみません。今後も文章力については精進していきたいとい思いますので、悪しからず!

また、遠方で東京方面にいけいない方もいると思うので、8月中旬に今回のテーマについて解説コラムを書きたいと思います。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました!

うつ病と院生の闘い④

  入院を宣告された当初よ私は入院することに抵抗がありました。その理由は①世間からの偏見の眼差し、②研究が出来なくなること、③入院費などの金銭的問題があったからです。

 

  私はうつ病に対して"病気ではない"、"ズル"、"負け組"という考えを持っていませんでした。しかし、そのような偏見を持つ人々の視線が気になっていたのです。「私も差別的な目で見られる」というある意味一種の偏見を私も持っていたのです。そのような"他人の視線"が私をうつ病の病原であったのは後々知ることとなります。

 

  入院した時期にも私にとっては問題でした。私が入院した1月という時期は大学院(修士、またはマスター)1年生にとって(文系だけかもしれませんが)大きな節目でした。修士課程は2年の課程で修士号取得のために2年生の最後に修士論文なるものを出さなければなりません。修士1年の2年生に上がるこの時期はこれまでに学んだことを自分の研究に取り入れ、論文執筆のためにその研究の意義や価値を見出し、方向性を決めなければならなかったのです。前回、すでに触れたように修士1年の課程での私は精神的にも肉体的にもボロボロの状態でした。そのうえ入院となれば、さらに自分の研究が遅れてしまうという懸念がありました。入院宣告は私にとってある意味、自分の研究への死刑宣告でもあったのです。

 

  また、家族と絶縁したため、入院費は自分で支払わなければなりませんでした。家庭に生活費を納めていた私でしたが、なにかあったときのために貯金をしていました。しかし、その額も限られていたため、将来の生活に不安を抱かざるを得ませんでした。

 

  以上のように精神的臨戦態勢に入っている一方で、ホッとした気持ちかま私のなかにありました。病棟のベットに横になったとき、はじめて"逃げ場所"を得られた実感がしたのです。様々な不安と葛藤が入り混じりながらも、やっと"安心"を得られたのでした。

 

  「少し休めばきっと良くなる」と信じていた私でしたが、入院は新たなる闘いの幕開けに過ぎなかったのです。

 

 

うつ病と院生の闘い③

こんにちは!きびなごボールです!

 

 私は”吊るし上げ”の後、体調が一気に悪くなってしまいました。研究していても全く頭に入って来なくなり、常に腹痛を抱え、ときには気を失うほどでした。腹痛ということもあり、内科にかかっていました。しかしどこも悪くないと判断され、改善は見込めませんでした。そのような状況もあり家族からも「うつ病ではないのか?」と言われました。普通の家庭なら心配で病院に連れて行くと思います。でも私の家族ないし一族はうつ病に偏見がありました。私はそのような一族の考えには否定的でした。苦しいときに「うつ病?本当にそれだけは恥だからやめてね」と言われたとき、私のなかの何かが”プツり”と切れてしまいました。

ここでは詳細を述べませんが、私は家族ないし一族とはあまり関係がよくありませんでした。自分で言うのはためらいますが、家族にはいろいろな問題を抱えていたのです。そういうのも積もりに積もっていたのかもしれません。私と家族の関係が切れた瞬間だったのです。

 

本来なら”吊るし上げ”の直後に精神科に行くべきでした。でも私は判断がつかない状況にまで陥っていたのです。ひたすら内科に行き続け、体調を悪化させていきました。

次第に自分のなかで研究ができないことへの重い責任感を感じはじめ、希死念慮を抱くようになりました。秋口には毎日どのように自決すべきかを一日考え、遺書をひたすら描き続けていました。完全にうつ病にかかってしまっていたのです。

 

そして、とどめを刺される出来事が発生しました。家族が生活保護を受けることになったのです。前の記事にも記述しているかもしれませんが、私は国から受けている奨励金から毎月、家庭に生活費を納めていました。しかし、それだけでは足りない状況になっていたのです。当時私は片親で病気をしている祖父母と暮らしていました。本来なら、若い私が就職して家庭を支えるはずでしたが、大学教授からの進学のすすめや叔父たち家族が祖父母の面倒をみること、自身の奨励金を家庭に納めるなどの条件のもとに私は大学院へ進学しました。ところがある日突然相談なしに叔父家族が生活保護を受けさせると宣告してきたのです。

ではなぜここで生活保護が問題になるのか。当時の生活保護法では家族内で大学以上の進学は禁止されていたからです。すなわち、大学以上の学問は贅沢品とみなされ、国はわれわれに強制的に退学を命令することができたのです。ここで家族が生活保護を受けると、私は学問の道を諦めざるおえないこと、中途半端な時期に就職活動をしなければならないこと、収入がなくなることなどの多くの問題が噴出することは必然的でした。

また、生活保護法の厄介な部分は細かい規則を実際に施行する各市町村で制定することが可能であったことです。例えるならA市では推薦で入学した大学進学は認めているが、B市では法令通り高校までしか進学は許さないなどです。私の住んでいた町ではこの例の後者でした。

この状況をなんとか打開したい私は実際に役所へ問い合わせしました。しかしそこで言われたのは「こんな貧乏な家族がいるのに進学したのか?」「勉強なんかしないで働きなさい」「学問しているなんておこがましい」とひどい言葉の数々でした。さらに住んでいた町の規則で私の存在が生活保護受給の妨げとなっていました。私は学問の道を完全に諦めなければならない状況だったのです。

私はなんとか学問を続けられる方法を調べはじめました。大学で関係書籍を読んだり、専門の研究者や法学者に相談したりしました。しかし、結果はいい方向に向かいませんでした。また先述したとおり、研究もまともにできない状態だったため当然調査は捗りませんでした。

 

次第に私の頭は思考停止していきました。同時にじっとしていられなくなり、手の震えが止まらなくなっていました。睡眠障害も悪化していて、1時間しか眠れなくなっていました。

体も心もボロボロになった私は国費をもらっているのに人々に自分の研究がフィードバック出来ていない責任や家庭を支えられなかった責任、なによりもこの世に生きていることが辛く感じてしまいました。

なにもかもうまくいかなくなったある日。私は責任から逃れるため研究室で首をくくりました。しかし、気がつくと紐が切れていて、研究室の先輩に助けてもらいました。私は死に切れなかったのです。

この事件をきっかけに大学内にある学生向けの病院の精神科に行きました。結果は当然入院でした。病院の先生は即刻、家族へ電話しました。その後私のもとに電話が掛かってきましたが、「はあ」の一言ですぐに切れてしまいました。この瞬間、私は天涯孤独となったのです。

今思えば入院はよかったと思います。しかし、同時に新たな地獄の幕開けでもありました。次回続きを綴ろうと思います。

 

うつ病と院生の闘い②

こんにちは!きびなごボールです。

 

前回はうつ病になるきっかけをお話してきました。

いわゆるオーバーワークをしてしまったのです。今思えば逃げ道を探して体勢を立て直して諸課題に望めばよかったと後悔しているところがあります。これは院生だけではなく、会社勤めの方など様々なケースに当てはまると思います。「大学院生みたいに社会人は時間がとれない」とおっしゃる方もいるかもしれません。オーバーワークしてしまった私が言えるのはオーバーワークはうつ病のもとになるということです。いいかえれば黄色信号なのです。そのような状況にある方は逃げ道を作るべきだと思います。そうでなければ本当に取り返しのつかないことになります。

ではどんな逃げ道があるのか。一番の近道は”今自分がしたいこと”です。休みたいと思えば休めばいいのです。簡単に言うなとおっしゃりたい方もいるでしょう。でもよく考えてください。自分の命と仕事のどちらが大事かという問いなのです。当然、命が大切です。この問いに仕事と答える方がいたら、ピコピコハンマーで叩いてやりましょう!w

いずれにせよ、仕事と答える企業や学校は殺人と同格だと思います。そんなやつらがいたら即刻避難しましょう。

 

さて、話を戻しますと、大学院に入って2〜3週間でオーバーワークしてしまったのが前回までの話でした。当時の私は自分自身で命と仕事という問いに仕事をとってしまった愚か者でした。私は大学までスポーツをしてきたということもあり、体力には自信がありました。底知れない体力もあったせいでだましだましで仕事をなんとかこなしてしまったのです。

 

しかし、入学してから1、2ヶ月で体調はさらに悪化し、体力では解決できない心に傷がつく事件が発生していきます。

 

入学してから1、2ヶ月、生活リズムは前回とお話した内容と変わらず、朝から次の日の早朝まで大学で過ごしていました。体重はさらに10kg減量し、食事は喉を通らない状態にまで陥っていたのです。ご飯を少しでも食べると戻してしまい、一日の大半が立てないくらいの腹痛に襲われていました。私の体は悲鳴を上げ始めていたのです。

 

そんななか思わないところから刺客が現れたのです。

一つは自分の災害研究からでした。前回お話したとおり災害関係のプログラムに合格した私は様々な分野を学んでいました。ある時、多数の学生と交流しているとき、「震災のころを話して」と言われたのです。歴史学で災害の歴史を研究していた私でしたが、自身の東日本大震災の体験談について話すことについては躊躇があったのです。なぜなら、研究から離れた一個人としてあの災害を思い出したくない、どのように話せばよいのかわからないという理由があったからです。研究の立場でも自身の体験をどのように扱ってよいものなのかもわからなかったのもあります。私はそのような理由から話すことをためらったのです。しかし、彼らから返ってきたのは「研究者として失格だ」、「被災体験を話していかなければならないのに何を考えているんだ」などひどいものでした。たしかに自身の体験を研究上に乗せられないのは私の腕がまだまだ未熟なのは確かでした。でも、私は研究者の端くれでもあり、被災者でもありました。心に消えない傷をつけられたのです。

 

もう一つは研究室での”吊るし上げ”でした。私の研究室では同窓会という名目の学会があります。その学会に私は卒業論文を発表することになっていました。しかし、その学会では他大学からきた人間を潰すという伝統がありました。この伝統に他大学からきた私は餌食となったのです。論文の端から端まで批判され、私の素質まで批判してきたのです。学問は批判されてなんぼの世界なので批判自体はむしろwelcomeでした。私は自身の研究にできるだけ真摯に向き合い、欠点や課題をできるだけ把握していたので、返せる部分は返答し、できないところは今後の課題としたのです。ですが、学問の批判より私の素質の批判が多く、そればかりは返答できませんでした。まさに”吊るし上げ”でした。他の研究室からきていた方々からのちに「あれは潰しにかかっていた」と話していたことから、他者からみても私は”吊るし上げ”にあっていたのです。

その発表のときに司会をしてくださっていた良き先輩も私のせいで批判の対象になっていました。それぐらい学会はヒートしていたのです。下段したときも、周りから「もとの学校にかえれ」、「あれは研究者になれない」などの罵倒を浴びました。今でも、その先輩のことや罵倒されたことが夢に出てきます。私にとっては衝撃的な体験でした。

 

これらの体験がより一層、不調に繋がっていきました。その後の私は常に腹痛持ちになってしまい、睡眠したくてもできない状態に落ちいりました。研究しても頭に内容が入ってこないようにもなりました。

 

今回はここまでにしておきます。次回はうつ病の発症と入院についてお話していきたいと思います。

うつ病と院生の闘い①

はじめまして、私の名前はきびなごボールといいます。

 

この名前は私の趣味の一つであるラジオネームです。由来は単純で好きな釣りのエサの一つであるきびなごと大好きな野球からボールをもらったというものです。

 

もともと当ブログは読んだ本の感想を書くために開設したものです。最近、大学院の先輩から”うつ病の体験談を書いてみたら?”と言われました。これを契機に自分のうつ病体験談を綴ることで誰かのためにならないか?と思い今回書いてみることにしました。

 

けして明るい話ではありませんが、最後まで読んでいただけると嬉しいです。

 

 

私は2011年の東日本大震災を高校2年生のときに体験しました。自宅は津波で流されまい、仮設住宅で暮らすことになりました。震災で多くの知り合いをなくし、なによりも恩師がなくなってしまったことがかなり辛かったです。

なぜこんな体験を多くの人々がしなければならないのか。新聞などの報道で”未曾有”と叫んでいるけれども、過去には「明治三陸地震津波」(1896年)や「昭和三陸地震津波」(1933年)があったのに多くの人々は知らなかった。もし、これらの災害が現代の多くの人々に伝わっていたらこのような大きな被害も出ず、多くの人々が犠牲にならずに済んだのではないだろうか。そのような思いから歴史学を通して災害の減災に貢献したいと思い研究の道を志ました。

 

高校卒業後、地元の私立大に入学、指導教員の勧めで大学院は地元の国立大に進学しました。さらに歴史災害の研究ができると思っていました。しかし、これが自分とうつ病の付き合いのはじまりでもありました。

 

私は進学が決まったあと、文科省認定の災害関係のプログラムがあることを知りました。そのプログラムは文学だけではなく、工学や理学などさまざまな分野を横断的に学ぶことで災害時に貢献できる研究者を育てるというものでした。同時に生活が十分にできる奨励金もついていました。私は他分野の知識や視点を入れた研究が必要であると以前から思っていたのですぐにそのプログラムに応募し、合格しました。

 

プログラムでの学びはとても刺激的で勉強になることが多かった一方で、自身の研究室の講義や仕事の二足のわらじとも言える環境がとても大変でした。講義の履修も他の学生よりも三倍ほど取らなければならなかったのです。自身の所属する研究室の仕事も官僚的で縦割りで、他大学からきた私にははじめてのことばかりで困惑していました。しかし、誰も仕事の内容を教えてはくれず、忙しいときも手伝ってくれませんでした。とにかく、自分でやらなければならなかったのです。また、他大学からきたとの理由だけで多くの講義の発表を任せられてしまいました。

 

気付けば入学して2〜3週間で、毎日朝帰り、睡眠は電車の往復の1時間、飲食の時間も惜しくなっていました。ひたすら研究室の机と講義に向き合っていたのです。結果、体重は10kg以上減少し、睡眠障害になってしまいました。

 

 

今回はここまでにして置きたいと思います。次回はうつ病の初期段階の話をしていきたいと思います。